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東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.382-383.〕〔映画世界社, p.23.〕〔映画世界社, p.28.〕〔''東郷久義''、''jlogos.com'', エア、2013年5月30日閲覧。〕〔''東郷久義''、日本映画データベース、2013年5月30日閲覧。〕〔''東郷久義''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月30日閲覧。〕〔''東郷久義''、allcinema, 2013年5月30日閲覧。〕〔''東郷久義''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月30日閲覧。〕〔''東郷久義''、コトバンク、2013年5月30日閲覧。〕。本名品川 久義(しながわ ひさよし)〔〔〔〔。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」のひとりとして知られ、現代劇を中心に多く主演した〔〔〔山本, p.272-275.〕。 == 人物・来歴 == 1898年(明治31年)3月26日、島根県に生まれる〔〔〔〔。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている〔〔。 長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する〔〔〔〔。同学の柔道部(創部1915年)〔関西大学体育会柔道部OB・OG千柔会 、関西大学校友会、2013年5月30日閲覧。〕の主将を務めて活躍、同学卒業後は、3年間にわたり、南洋群島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦の地域)やドイツ・フランス等、各国各地を「柔道行脚」した〔〔〔〔。 1926年(大正15年)5月、牧野省三に「主演俳優」として招かれて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社、同年7月15日・23日に公開された『蛮骨漢』前後篇(監督富沢進郎)に主演して、満28歳で映画界にデビューした〔〔〔〔。「スポーツ俳優第1号」と呼ばれる鈴木傳明、「陸のスポーツ俳優」こと浅岡信夫、「海のスポーツ俳優」こと広瀬恒美、「和製」こと冒険女優・高島愛子、「昭和の鳥人」ことハヤフサヒデト、あるいは大久保謙治、大井正夫らとならび、マキノのスポーツ俳優として、同年8月13日に公開された『奮闘児』(監督富沢進郎)、1928年(昭和3年)7月20日に公開された『鉄血団』(監督川浪良太)等に主演し、人気を博した〔〔。牧野省三が総指揮・総監督に乗り出した大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』あるいは『大化新政』では時代劇にも出演し、それぞれ「赤埴源蔵重賢」役、「巨勢徳大臣」役を演じている〔〔。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、東郷は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、市川幡谷、實川芦雁らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月30日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)8月、同社の解散とともに退社した〔。同社での最後の作品は、同年4月3日に公開された主演作『親爺天国』(監督三上良二)であった〔〔。同年8月1日から9日間、京都・南座で清川一郎の欧米遠征を送別する『送別柔拳大会』が開かれ、同月3日から「マキノの東郷久義君も審判官として」参加すると報道されている〔国立, p.208.〕。 同年9月、東亜キネマに入社、等持院にあった京都撮影所に所属し、同年10月8日に公開された『奉天城一番乗』(監督大江秀夫)に主演したが〔〔〔、入社した9月のうちに同社の製作代行会社・東活映画社が設立され、東郷は、この新会社に継続的に入社した〔〔〔。1932年(昭和7年)10月には、東活映画社が解散、翌1933年(昭和3年)1月には同社の前社長・中山貞雄が設立した新会社・日本映画に移籍するが、同年3月には早くも解散、同社があまりにも短命に終わったため、東郷の出演作はなかった〔〔〔。東郷は、同年、東郷久義プロダクションを設立、『桃色ギャング』(監督大庭喜八)を製作・主演した〔〔〔。1934年(昭和9年)末、東京・西巣鴨の大都映画に移籍、数本に主演したが、満37歳になった1935年(昭和10年)5月8日に公開された『最後の勝利者』(監督太田辰三)を最後に、同社を退社し、映画界から去った〔〔〔。以降の消息は伝えられていない〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東郷久義 (俳優)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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